敗戦を見つめる旅  近代天皇制=戦前を乗り越えられない日本

真珠湾

写真は語る

日本人にとってハワイは身近な存在となったが、真珠湾見学に訪れる日本からの観光客は稀なようだ。日本軍による奇襲から78年目の20195月、湾内を米軍のガイド船で巡った。撃沈された戦艦アリゾナの上に建造された白亜の記念館がアリゾナメモリアル(写真右上)で、これと一体で配置されているのが戦艦ミズーリ(同中央)だ。194592日、東京湾に浮かぶミズーリ号の艦上で日本の降伏文書調印式が行われ、戦後日本は正式にスタートした。安倍晋三首相は201612月末にオバマ大統領(当時)と共に真珠湾・アリゾナメモリアルを訪れた。だが、日本のメディアは近接するミズーリ号を紹介したり、米国がアリゾナとミズーリを一体配置した意図を報じたりはしなかった。日本政府、メディアともに米国との戦争での敗北を正面から見据えたくなかったのだ。

「ハワイに来たらまず真珠湾を訪れなきゃ」。真珠湾ツアーバスで同席した米東部ニューハンプシャー州からやってきたという40代とみられる米国人夫妻はこう語った。米国人の「リメンバー・パールハーバー」は変わらない。それは敗戦国・日本への警告でもある。日本の降伏2カ月前の19456月に連合国51カ国がサンフランシスコで採択した国連憲章にある敵国条項は依然として削除されない。

憲章採択時、1945年5月にナチスドイツが降伏していたので、枢軸3カ国のうち日本が唯一の敵国だった。日本政府は敵国条項について「完全に死文化している」と主張するが、戦勝の連合国側が戦前・戦中の「日本」について敗戦後も十分に過去を清算せず民主化が不徹底なままであると見なしている証と受けとれる。とりわけ、真珠湾での演説で「和解」を強調したが反省や謝罪について言及を避けた安倍政権には冷めた眼差しが向けられた。我々はこの「日本」を過去のものとして清算しないかぎり、敗戦を正面から見据える旅には赴けない。

ポスト敗戦と団塊世代

2020年の「終戦記念日」を迎えた。第二次世界大戦の一環として未曽有の犠牲をもたらしたアジア太平洋戦争(主として1941年末開戦の日米戦争)を通じて天皇の統治する大日本帝国が完膚なきまでに打ちのめされ、1945年に破綻、崩壊して民主主義国へと大転換したとされ75年が経過した。他方、明治元年(1868)以降の富国強兵策の一定の成功と第一次大戦後のベルサイユ体制下世界5大国の1つに数えられた興隆期を経ての帝国崩壊までに77年を要した。日本近代における敗戦前期(戦中・戦前)とポスト敗戦期(戦後)との期間がほぼ同じ長さになる。

対米敗戦と米国による事実上の日本単独占領は明治維新と並ぶ近代日本の分水嶺であり、社会の骨格は革命的に組み替えられた。社会システムは民主化されたが、それは国民の内発的な変革ではなかった。人々の心理、行動の基層には戦前的価値観がへばりついたままであった。否、「へばりついたままである」それは失われた30年の半ばに登場した「戦後レジームの脱却」のスローガンとともに大日本主義、換言すれば嫌韓、反中をベースにした歪んだ大東亜の帝国意識の復活として現れた。

筆者ら敗戦直後に生を受け、間もなく後期高齢者になる昭和20年代前半(1947-49)生まれの団塊世代の人生は上記のポスト敗戦期そのものであり、かつてない生活水準や生活様式の激変を体験した。

この世代が20歳前後だった1968年に日本政府(佐藤自民党内閣)は明治100年記念式典を挙行した。団塊世代はこの時期、明治期から戦中期まで日本人を縛り続け、戦後社会にもへばりつくように残存する前近代性を批判して戦前の延長線上にある大学ヒエラルキーの解体提唱に端を発した全共闘運動の主たる担い手だった。だが彼らの大半は今、沈黙している

■戦後メディアの正体 

過去を省みなくては現在を理解できず、将来を模索できない。明治以降の日本近代化の在り方、敗戦の受け止め方、戦後日本の現状とその国際社会への関与の仕方に関心を抱かなければ、批判的論評はできない。日本社会は国家神道を基盤に据えた明治期の近代化と敗戦の総括を曖昧にしたままである。アジア太平洋戦争における日本軍の行為を侵略と見なし、過去の過ちをアジア諸国民に真摯に謝罪した村山首相談話(1995年)を撤回したいとの意思を隠さない安倍政権の登場により、日本社会に生き残ってきた「国を守ることとは天皇統治の国体(国家神道に基づく祭政一致の支配体制)を護持すること」という戦中・戦前期のイデオロギーが水面にはっきり浮上した。

自由と民主主義を擁護し、国民の知る権利に応える「社会の木鐸」として、「権力の監視」が最優先任務であると唱えていた日本の大メディアの看板はまったくの欺瞞であった。彼らは基本的には権力層とインナーサークルを形成して癒着している。戦後のメディアは「化粧」は塗り替えたものの、地肌は戦前と同じ「権力のプロパガンダ機関」であった。

30余年前の昭和天皇崩御報道でこの膿があますところなく噴き出た。昭和天皇の重病発覚を契機に、手術とその後の大量輸血、病状悪化、全国で展開された快癒祈願の記帳と人々の声、ほぼすべてのイベントの中止を巡る報道が連日延べ5カ月にわたり続き、198917日の死去に至るまで日本社会は翼賛的で異様な自粛・委縮ムードに包まれた。委縮ムード報道により煽りに煽られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真:1989年1月8日朝日新聞朝刊

 

■社会の歪んだ鏡

メディアは総じて、昭和天皇の戦争責任を決して正面から問うことはなかった。対米開戦の詔勅布告に追い込まれたのは明治憲法の定めに従い国務大臣らの輔弼(助言)に従わざるを得なかったためとして、それを「立憲君主制の悲劇」と伝えた。他方、録音された終戦詔書となった玉音放送はポツダム宣言を受諾した天皇の聖断によるもので、これで国民は救われたと報じた。様々な歴史的事実の歪曲、旧憲法の解釈の意図的なねじ曲げが行われた。戦争責任に言及しないことが暗黙の大前提だった。

写真:戦争責任を問いかけた機関紙・赤旗。現在、日本共産党は綱領で「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」とし、事実上象徴天皇制の容認へと転じている。社会の右傾化で天皇制を否定しては票も議席も確保できなくなった証である。

日本の大メディアは第二次大戦という史上最大の惨禍を生んだ過去をまったく清算していなかった。薄っぺらい「反省」と「お詫び」を繰り返す歴代政権と同根同質である。明治維新以降の近代史、戦中・戦後史に真摯に向き合えば、「昭和天皇崩御報道」がいかに翼賛そのものであったかが判明する。戦後メディアは社会の木鐸どころか、煽り立てた挙句の社会現象を映し出す歪んだ鏡に過ぎなかった。

注:2022/01/27掲載近代天皇制の本質に迫る  傀儡から絶対君主へと変容した昭和天皇」を参照されたい。 

象徴天皇制「定着」への道

1970年代の東西冷戦期、55年体制下の日本の政治には見掛け倒しであったにせよ今日とは比較にならないほどの緊張感が漂っていた。少なくとも、メディア関係者の間では、天皇制は民主主義に合致しないとの意見が多数派であったと断言できる。宮内庁担当の社会部記者は「宮内庁幹部は(天皇制が)ヒロ(浩宮、現天皇)までもつか本気で心配している」と明かした。

ところが「社会主義の敗北」となった東西冷戦の終焉とソ連崩壊、「反共の戦いに勝利」した米国の一極支配体制の確立、新自由主義の跋扈により民営化が促進され、派遣労働法が制定された。この結果非正規労働者が増大、労働基本権がないがしろにされて社会格差が拡大して、労組、市民・住民組織など抵抗勢力が衰退し社会に批判力が失われた。

さらに重大なことがある。貿易摩擦に象徴されたようにワシントンは米国を脅かすまでになった日本経済を冷戦終焉後の最大の脅威と位置づけ、バブル崩壊をにらみ周到に練り上げた計略によって日本の経済力の根幹を大きく損ねた。これにより雇用の安全弁が破壊された。ワシントンにとってのこの不都合な事実には蓋がされている。

21世紀に入ると、改革開放政策の奏功で中国は経済的に著しく台頭し、日本を「アジアの覇者」の座から引きずり下ろした。軍事力が急速に拡充される中、日本の首相の靖国参拝を機に中国では反日暴動が続いた。これに呼応するように、経済衰退する日本では戦前イデオロギーが顕著に再浮上する。反中・嫌韓のヘイトスピーチが各地でうねりとなって起こり、急速に社会の右傾化、不健全化が進んだ。

この時期と並行して、「太平洋戦争戦没者慰霊の旅、災害者見舞の全国行脚で国民に寄り添う」ことを通じて「象徴としての天皇の在り方」が模索され、象徴天皇制は定着したとされている。

天皇制打倒を叫んでいた日本共産党も今日では象徴天皇制を事実上容認している。今や天皇制の存続に疑義を挟むのはテロリストと同等の極左、反日分子との烙印が押され、激しい非難にさらされる。

戦前を取り戻す?

東南アジアの貧困国を拠点にフリーランスとして十年余り活動し、2007年に日本に帰国してみると、戦後民主主義体制を否定するかのような戦後レジュームの脱却、とりわけ占領憲法の唾棄を唱える第一次安倍政権が登場していた。まさに日本のエスタブリッシュメントに潜在していた戦後体制を拒絶する意思が露骨に顕在化しており、改めて大きな衝撃を受けた。さらに追い打ちをかけたのが「あなたのブログに『昭和天皇の戦争責任を問う』との記述を見つけた。これを削除してくれ。極左に寄稿させるわけにはいかない。」とのネットメディアの主宰者からの恫喝であった。

会社記者になった1970年代には当然だったことがもはや許容される余地がないほど日本社会は偏頗に変容していた。否、天皇を元首として頂き、軍事力、政治力を誇示して「世界の中心で輝く」大日本主義が再び姿を現していたのだ。それはまさに「大日本病の再発」と言えた。ネットには「ニッポンすごい」が溢れていた。

写真説明&注:第一次大戦後の1919年パリ講和会議に出席したいわゆる5大国代表。牧野伸顕(前列左端)ら日本政府代表の姿も。大日本帝国はこの時期欧米列強に並び「世界の中心で輝いた」。安倍首相は外交成果を誇示する際にこれを口にする。日本は戦後も奇跡の経済成長でアジアで唯一G7(主要先進7カ国)のメンバー国となった。安倍グループの唱える「日本を取り戻す」の日本は必ずしも戦前の列強の仲間入りを果たした「日本」だけではない。それには中国台頭に先駆けて、バブル経済が崩壊する前の戦後絶頂期に至る高度経済成長で戦災の廃墟から一等国へと復活した軌跡の日本が混在している

 

大日本主義の復活に過度な懸念は不要である。世界に類を見ない神聖で崇高な神国への絶対忠誠、八紘一宇の礼賛、御真影最敬礼と宮城遥拝、治安維持法と憲兵・特高の拷問、暴力に満ち理不尽そのものの軍隊組織と徴兵制度、捕虜となるのを許さぬ玉砕の美化、家制度・父権支配と男尊女卑、華族制度と大地主支配、労働基本権の未確立とたこ部屋労働、農村社会の疲弊と極貧、大半が小作の貧農と娘の身売り、学徒出陣(1943年)当時の大学進学率3%等々を想起しただけで、戦前・戦中の個々人の自由を極端に制限、抑圧した天皇を頂点とする家父長制社会への回帰を本気で望む者が果たしてどれだけいるだろうか。

筆者の見方では、新たな大日本主義の台頭は、バブル経済崩壊(1991)以降、「失われた30年」を生み出し、日本人の自信とリベラル度を低下させ、謝罪を求め続ける中国、韓国を嫌悪する新たなナショナリズムを招来させるよう導いた情報・イデオロギー操作の所産である。同調、迎合しやすい日本の人々と社会をハンドルしてきた集団の正体の追求こそが課題となる。

ある脳科学者は「日本人は世界で最も不安が強い脳を持つ」と指摘する。日本社会特有の「空気を読み」、過剰に忖度、同調、迎合しようとする集団主義の根はここにある。また日本人には国家組織を司る権力の主体は必ず交代するし、交代させるべきとの多元主義に基づく思考が欠けがちである。権力や統治者に異議申し立てする抵抗権の思想がしっかりと根付いておらず、日本社会は「ニッポン」という一枚岩で覆われている。戦前の日本も戦後の日本も同じ「日本=ニッポン」なのである。ネット時代の今日、権力執行者は異端を排除する極めて巧妙な統制メカニズムを作り上げた。

変わらない「日本」

「日本=ニッポン」を不変とみなしがちな今日の風潮を根っこで支えているのが「万世一系の天皇の統治する」、「126代続く皇統と万邦無比の国体を誇る」との日本観である。軍事膨張主義を促進したこの激烈なナショナリズムは江戸後期の国学や水戸学に源があり、その影響を深く受けた尊王攘夷運動と明治の薩長藩閥政府、そして昭和期の軍部ファシストに引き継がれた。1945年に破綻したはずの、21世紀の今日では時代錯誤と言うほかない荒唐無稽な思想、否、幻想が安倍現政権を侵食している。一方ワシントンは日本で再台頭した過剰なナショナリズムの矛先を米国へと向かわせないよう巧みに操作し、日本政府を中国包囲・反中勢力の最も重要な駒として活用している。

幕末期から明治維新を経ての日本近代化を促進し、戦後も清算を免れて生き続け、顕在化した「パトス=情念」の源と本性をできるだけ正確に把握せねばならない。「戦後を終わらせ、日本を変える」にはまずは安倍日本会議政権の抱くこの情念から人々が完全解放されることが最優先課題となる。

このパトスを極度に警戒するワシントンやロンドンがこれをどのように逆手に取り日本政府を現代の国際政治の表裏で利用しているのかを見極めることも大きな課題である。この課題を追求すれば、既存の対米従属論を超えた新たな視点が提起できる。野蛮危険な「日本」から解放されないかぎり、世界にとって日本の外交自立は災厄となりかねず、半永久的に保護・従属させるほかないのだ。

団塊世代にとって喫緊の課題は終活ではない。「戦後の総括」である。