8月9日。筆者にとって原点と言える特別な日である。長崎に原爆が投下され、当初の標的だった故郷小倉が運命のいたずらともいえるような米国側の判断で被災を免れて75周年。筆者は長崎の人々の犠牲の上にこの世に生を受けた。
まずはフロントページに掲載した記事の一部を転載する。
「1945年8月9日。3機編隊の米B29爆撃部隊は、長崎投下に先立つ同日午前9時44分、当初の標的だった九州の玄関口・小倉市(現北九州市)中心部にあった小倉造兵廠(日本陸軍兵器工場)の上空に達した。新型爆弾を納めた爆弾庫扉は開けられ、爆撃機が高度1万メートル近い上空を旋回した約45分間、爆撃手の指は投下ボタンに何度も掛けられたと推定されている。米軍機が小倉での原爆投下を断念し、長崎に向かったのは、小倉の人々にとってただただ幸運としか言いようのない条件によってであった。その時、15年戦争の大半を中国、フィリピン、インドシナ半島の前線で従軍し、前年の1944年に帰還した私の父は、原爆の標的だった小倉造兵廠で働いていた。この運命の日から3年後。長崎の人々の犠牲によって救われた我が両親は、私をこの世に送り込んだ。」
振り返ってみるとあれも巡り合わせだったのだろうか。三木武夫首相(当時)が歴代首相として初めて長崎の原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典に参列した1976年8月9日に初めて現地を取材した。3日間長崎に滞在し、式典をはじめ原水禁、原水協の大会など一連の関連行事に関する記事を書いた。「祈りの長崎」。浦上天主堂での早朝ミサ。まるで十字架を背負ったように祈りを捧げる被爆老女の姿が今も脳裏に鮮明だ。
勤務先の共同通信社は三木首相の供花シーンの写真を次のようなキャプションをつけて国内外のメディアに配信していた。
「首相の参列に複雑な長崎 供花する三木首相 『原爆犠牲者慰霊・平和平和祈念式典』で平和祈念像前の祭壇に供花する三木武夫首相。首相初の参列で長年の念願はかなったものの、長崎市民の気持ちは複雑だ=1976(昭和51)年8月9日、長崎市平和公園 」(太字は筆者)
なぜ日本の首相は戦後30年の長きにわたり広島、長崎への訪問を避けていたのか。ワシントンが原爆投下を日本を降伏させるためのやむを得ない手段だったとの公式見解を打ち出していたからだ。しかし、原爆投下の背景については、ソ連に対する威嚇、対日侵攻抑止も大きなファクターとして挙げられる。
日本政府は敗戦国日本の総理大臣の被爆地訪問はワシントンに対する「異議申し立て」となると恐れていたのだろう。三木政権はどのように根回ししたのであろうか?1974年11月にジェラルド・フォード米大統領が米国大統領として初めて来日しているが、首相の初の被爆地訪問に向け何らかの話し合いが持たれたのだろうか。
安倍首相は6日の広島に続き、9日は長崎を訪れる。「核なき世界」を口にしながらも、核兵器禁止条約は決して批准しようとしない。理由は「日本の安全が米国の核抑止力によって保障されている」からだ。「中露、北朝鮮の核の脅威」。”リアルポリティクス(現実政治)”。「戦後日本」はこの「壁」を乗り越えねばならない。